来年で20周年を迎えるマックグラフィックアーツ。
今は代表取締役を務める江川も、創業当時は駆け出しのデザイナー。
そんな江川が思い返す当時の様子、
生まれたばかりのマックグラフィックアーツを取り巻く環境。
同じ時代を過ごした方々には懐かしく、
まだ若い方々には「へぇ〜」と思って読んでいただけると嬉しいです。
●江川が振り返る当時の業界の様子
インターネット上陸以前、情報源といったら雑誌でした。
当時はやたらと雑誌を買い込んでいた気がします。
1994年はサブカル系雑誌が相次いで創刊された豊作の年で、
CAPE-X、GURU、WIRED、QuickJapanなど、濃かったですね…。
いつもバッグに雑誌が入っていた覚えがあります。
誌面では、米西海岸でムーブメントになってるインターネットが
これから日本でもクルぜ!的に取り上げられていましたね。
メディアの中心で煽動していたのは高城剛やモーリーロバートソン。
正直、当時の江川はその熱にヤられていました…。
幕張で開催された、第1回Networld+Interop Tokyoにも行きました。
インプレスからインターネットマガジンが創刊されると、
カルチャー方面だけでなく、伊藤譲一氏や村井純氏といった
ビジネス、学術方面の立役者も一般に広く知られるようになります。
一気に「インターネット」が流行語になっていった時代ですね。
初期のインターネット接続サービスは少々高かったのですが、
ASAHIネットが画期的なサービスを始めました。
それは、テキストWWWサービス。
パソコン通信の環境さえあればインターネットの世界を垣間見ることができる
ステキなコンセプトでしたが、当然、流れてくるのは全てテキスト。
アンカーは “[1] LINKS” などと表示され、
数字+改行を入力すると、リンク先のテキストが表示されるという、
今思うと味も素っ気ないものでしたが、当時はハマりました。
NASAなど、米国にあるサーバーは回線の細さもあって表示に時間がかかります。
英語もほとんど読めませんでしたが、毎晩夢中になっていました。
ASAHIネットがダイヤルアップIP接続サービスがスタートすると、
完全にオンライン中毒のダメ人間モードに突入します…。
仕事から帰るとすぐにMacを立ち上げ、朝方までインターネットに夢中でした。
画面を通して世界とつながっていることにとても興奮していましたが、
それ以前に、毎日寝坊していました…。スミマセン…。
程なく、自分でもホームページを作りたくなりました。
日本語の『ホームページのつくり方』といった書籍はまだ存在しませんでしたから、
ソースを見よう見真似でコピーして、どこをいじればどう変わるのか、
手探りでリバース・エンジニアリングを繰り返していたのを想い出します。
そして、初代マックグラフィックアーツのサイトが完成します。
といっても、会社としてホームページのエリアを持ってなかったので非公開。
クライアントに「こんなコトが出来ますよ!」と提案するためのデモページでした。
●この年の出来事
2月 15日マックグラフィックアーツの設立を届出
- 創業社長 宮園は登記当日突然の潰瘍で入院
- 副社長の花谷が代行で登記に。欧文社名の【.H】がなぜ付いたのかは今もって謎だ…
6月 江川(現・代表)が正式に参加。営業2人にデザイナー1人という体制
●主な業務
・新聞広告
・ポスター等交通広告
・電子辞書等のパッケージデザイン
・名刺デザイン
・各種リーフレットのデザイン
・画像合成
・ピクトログラフィーでのプリントの受注
●事務所のロケーション
・四谷と市ヶ谷の間の六番町
・L字型の小さなオフィスを3社でシェア